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金原ひとみによるオリジナル小説『むすびめ』を独占公開。
金原ひとみによるオリジナル小説『むすびめ』を独占公開。

Exclusive novel for S by sloggi.

金原ひとみによるオリジナル小説『むすびめ』を独占公開。

2019.04.22

2004年、デビュー作『蛇にピアス』で
第130回芥川賞を受賞した小説家の金原ひとみさん。
そんな彼女が、先日ヴィジュアルを公開した〈エス バイ スロギー(S by sloggi)〉のために
オリジナル小説を書き下ろしているんです。
この作品が読めるのは、〈スロギー〉の2019SSシーズンカタログと『ガールフイナム』だけ。

Photo_Keita Goto
Styling_Chiaki Utsunomiya
Hair_HORI (BE NATURAL)
Make-up_Mai Kodama (SIGNO)
Model_Julia Abe (image)

Special novel by Hitomi Kanehara

むすびめ

金原ひとみ

 あの日あなたに会いに行く前、いつもにんじんを残す夫のためにカレーに入れるにんじんを摩り下ろしていた時おろし金で擦って作った傷が癒えた頃、あの日自分から別れを告げた割に傷ついていた私はようやくあなたからの連絡を待つことを止められた。
 あの日のご飯に行こうという約束はあなたの予定が変わったことで待ち合わせの二時間前に反古、一時間しか会えないから喫茶店でと一方的に変更され、ほとんどの約束の日時や場所が変更されてきたあなたとの最後も当たり前のように直前に変更になったことに、思わず自嘲的な笑みが零れた。いいよ大丈夫! 空元気なメールを何度送っただろう。それでもあの日の大丈夫は、これが最後だという決意のためか痛みが薄れている気がした。
 あらゆる労力を注ぎ込んできた彼との最後は呆気なく、もう無理だと思うという私の言葉には、そう思ってるのは分かってたという、最後まで阿吽の呼吸のような彼の同意が得られた。結局最後まで彼は私のことを分かっていて、分かってくれるだろうと予想していた私も彼のことを分かっていたのだという答え合わせのような幕切れで、最後くらい何かしらの衝突や反撃があっても良いのにという期待は予想通り裏切られた。
 喫茶店で一滴のアルコールもなく完璧に冷静なまま最後の時間を終えた私に芽生えたのは、ずっと描いてきたこの人との未来や、この人とこねくり回してきた駆け引きや重いLINEのやり取り、これだけしたんだからこのくらいしてもらいたいとかこれだけしてもらったんだからこれくらいしなきゃというしがらみや、今の私の言葉に彼は夫の影を感じたかもしれないとふつふつ湧き上がる小さな後悔なんかを、もう考えずに生きていって良いのだという解放感だった。

 ベッドの中の涙は夫の寝返り一つで止まり、無意識の内にLINEを待っているその手も自然と別のアプリをタップできて、会社のデスクや通勤電車でふっと浮かぶ彼の残像は手の伸ばしようもなく四つ同じ色が合わさったパズルのようにシュンと消えていく。砂山に割り箸を刺し、順番に回りの砂を削り合って、最後は私の番でぽとりと倒れただけだったのに、僅かな指先の力の入れ加減が理由で私のターンで別れを切り出すことになっただけなのにどこかに罪悪感が残っていて、でもそれと同じだけ向こうには未練が残っているんじゃないかと想像したりした。
「掛け布団カバーは私がやる。この間結ぶ場所間違っててやり直すの苦労したんだよ」
 ごめんごめんと言う夫は、じゃあベッドパッドとシーツ掛けるよと乾燥機から出したばかりの温かい塊を選別し始める。
「思ってたんだけどさ、この枕なんか低くない?」
「高い枕使ってると首に皺ができるってこの間ネットで読んだの」
 そんなこと気にしてるの? と笑う夫に、いいでしょと恥ずかし紛れに背中を叩く。前の枕クローゼットにしまってあるから自分のだけ戻してもいいよと言うと、気のない返事が返ってくる。掛け布団カバーを広げていると、中に黒い塊が見えて思わず「あっ」と声を上げる。
「ブラジャーは別にしてって言ってるじゃん。ネットに入れないで乾燥機にもかけちゃうなんて信じらんない」
「ごめん、いつも気をつけてるんだけどな」
 お気に入りのブラジャーを手に取り、形が崩れていないか確認する。こういうの珍しいね、彼の言葉が蘇る。いつも派手な下着ばかりつけていた私が、少しずつ彼に自分を見せられるようになっていった頃、このブラをつけて行ってそう言われたのだ。「俺が女だったら毎日ガーターベルトつけるけどな」彼はそう物足りなさそうに続けた。
 これどう? 気に入ってるんだけど。このブラを買った頃、特に何の感想も漏らさなかった夫に着替えの途中聞くと、夫は「シンプルだね」と一言漏らしただけだった。夫も彼も自分には理解できない生き物で、どんなに生活を共にしても濃密な時間を過ごしてもお互い分かり合えない砦があって、皆いつもその砦に足を一本残したまま愛を囁いたりセックスしたりしているのだという事実に、白けたような安心したような変な気分だった。
 セックスのあと服を拾い集めブラに腕を通した私に「待って、やりたい」と二回目を予想させるような言い方をしてホックを嵌めてくれた彼の指の感触が蘇る。
 掛け布団に被せたカバーの中に潜り、紐を手繰り布団とカバーを結びつけていく。この間女友達とした話が男女の結びつきの話だったなと思うけれど、詳細が思い出せず、CDにかけられたビニールを外す時のように記憶の突起を探る。
「鳴ってるよ」
 カバーの向こうから夫の声がして、カバーに潜ったまま多分LINEだからほっといてと言う。LINEは送信者名も内容も表示されない設定になっているし、ライン起動時に指紋認証も設定している。それに彼とはもう一ヶ月以上連絡を取っていない。
「何回も鳴ってるけど」
 そう? と言いながらゆっくりと結び続け、最後にジッパーを閉めると、私は中の布団の形を整えて、夫がすでにシーツをかけ終えたベッドの上にふんわりと羽毛布団を載せる。LINEは三件入っていて、この間会員になったマッサージ店からのお知らせとクーポンだった。その時、堀が崩れたように頭の中に女友達との会話が流れ出した。夫婦になると子供とか向こうの親とかの関係に縛られて、愛はないのに腐れ縁で続いてるだけだと愚痴を漏らしていた友達に、もう一人の友達が言ったのだ。
「解けない結び目なんてないんだよ。例えばセックスは蝶々結びくらいで、結婚は固結びってとこじゃない? セフレは蝶々結びを解くくらいスムーズに解けるし、結婚だって年季が入ってどんなにこんがらがってたとしても根気強く手繰っていけば必ず解ける」
 うまいこと言うねえ、と愚痴っていた友達は笑っていた。さっきの掛け布団カバーの中に生えていた布団を繋ぎ止めるための十六本の紐を思い出す。もちろん解けない結び目はない。でもよれよれになって前の結び目の跡が残っていたり糸のほつれている紐には、その分の悲しみと疲弊が見て取れる。結んで解いてを繰り返して、期待したり諦めたり意気込んだり退屈がられたり、大事にしたり飽きられたり愛を感じたり愛が分からなくなったりを繰り返してきた私たちは、くたくたになって癖のついた私たちは、一体いつになったら唯一無二の相手と結び目を作れるのだろう。

 彼なんじゃないかと本気で思っていた。私が結ばれるべき相手は、本当は彼だったんじゃないかと。彼じゃない、間違いだった。関係がぐずつきそう勘づき始めてからも、なかなかその関係を止められなかった。カレーに入れるにんじんを摩り下ろしている時も、指を擦って滲んだ血を見つめている時も、まだ迷っていた。例えばもしも、あの日ご飯に行く予定が変更されていなかったら、あるいはあの喫茶店で彼が私の親指と人差し指の傷に気づきどうしたのと手を取っていたとしたら、私は彼に別れを告げられなかったかもしれない。あれだけ本気で結ばれるべきだと思っていた人が、もう自分の人生に交わらないのだという事実が、今になっても不思議だった。
 やりたい、とホックを嵌めた彼の手が今も背中を僅かに温めている気がして、久しぶりに彼の顔がはっきりと思い出せた私は、クローゼットを漁って首の皺を気にすることを笑う夫のために染みだらけの羽毛枕を取り出しカバーをかけ、一つしかなかった彼のベッドの枕を握りしめる感触を思い出しながら、自分の枕の隣に置いた。