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GCC拡大版! 『コット、はじまりの夏』長編デビュー作がアカデミー賞ノミネート! 驚異の新人コルム・バレード監督に聞いた、映画の話。
GCC拡大版! 『コット、はじまりの夏』長編デビュー作がアカデミー賞ノミネート! 驚異の新人コルム・バレード監督に聞いた、映画の話。

GCC拡大版!
『コット、はじまりの夏』長編デビュー作がアカデミー賞ノミネート!
驚異の新人コルム・バレード監督に聞いた、映画の話。

2024.01.17

『コット、はじまりの夏』は2022年のベルリン映画祭でグランプリを受賞し、
2023年のアカデミー賞で国際長編映画賞にノミネートされた傑作。
半ばネグレクト状態に置かれていた物静かな少女が
信頼できる大人に出会って成長していく物語で、
自然の描写も素晴らしく主人公の幸せを祈りたくなるような映画です。
なんと監督はこれが長編劇映画デビュー!
才能あふれるコルム・バレード監督にインタビューしました。

Interview & Text_Kyoko Endo

―『コット、はじまりの夏』と監督のホームページで見られる短編『Mac an Athar』と、代表作はどちらも子どもが主人公ですが、監督ご自身はどんなお子さんでしたか。『Mac an Athar』の少年に近かったんでしょうか。それともコットみたいでしたか。
両方でしょうね。どっちの登場人物にも、脚本を書く時点でかなり僕の少年時代が反映されています。短編の方は半自伝的で、英語が使われている町でアイルランド語を使う少年が感じる居心地の悪さみたいなものを描きました。あれはあの年頃の私の感情を反映したものです。『コット』の主人公はかなり内向的ですが、僕自身も外に出るとあんな感じでした。最初に原作小説の『Foster』(未訳)を読んだとき、そういう内向的な子どもの視点が読みとれました。会話に参加するより観察している感じです。僕はかなり幸せな少年時代を過ごしてきたのでそこはコットとはだいぶ違うんですが、コットの家族の背景は言語という点ではうちに似ているんです。片方の親はアイルランド語を話して、もう片方の親は英語しか話さない。それがコットの内面に影響してくるんです。
うちはちょっと変わってたかもしれないです。アイルランド語が第一言語として話される場所は『コット』でご覧になったような田舎のほうで、ごく狭いエリアが点々としか残っていません。ダブリンのど真ん中でアイルランド語を話していると変わっていると思われてじろじろ見られたりします。しかもうちの父は絶滅の危機に長年晒されているアイルランド語を残す運動をプライドを持ってやっているから、僕らにも人前でアイルランド語で話してくるんです。通りの向こうからアイルランド語で呼びかけてきたりします。でも、子どもとしては、よその人と同じようにしてほしい。目立ちたくないんです。でもアイルランド語で目立ってしまう。だから子どものころはちょっと反抗していました。
―でもアイルランド語で映画を撮られましたよね。世界中で英語化が加速しているなか、しかも英語のほうがマーケットも大きいのにあえてアイルランド語でお撮りになったのは、やっぱり自分たちの固有の言語を残す必要性を感じられたからなんでしょうか。
アイルランド語を使うことへの反抗心は克服して、父が僕や兄弟にその言語を残してくれたのはギフトだったと気づいたんです。どんな子どもにとっても第二言語を獲得できるというのは本当に貴重なことですし、アイルランド人にとってはアイルランド語は文化的アイデンティティの中心になるものなんですから。『コット』を撮るまですべての短編映画をアイルランド語で撮りました。そうしていたら5、6年前に素晴らしいことが起こったんです。国立フィルムエージェンシーのスクリーンアイルランドとTG4というアイルランド語放送局が、新しい枠組みでアイルランド語の映画を撮ることになったんです。これまでアイルランド語の映画ってアイルランドでもものすごく少なかったんですよ。アイルランド語だって公用語なのに。そのために施策ができて、アイルランド語の短編やドキュメンタリーをつくってきていた僕は資金を得て映画を撮る機会に恵まれました。それでこの映画ができたんです。
―じゃあタイミングもすごくよかったってことなんですね。いつごろから映画監督になろうと思い始めたんですか?
最初は物語を創るのが好きだったんです。でも映画にもかなり興味がありました。父に映画愛を注入されたようなものです。父はテレビは嫌いで、テレビは脳に悪いし健康的じゃないと考えていましたが、映画は本当にリスペクトしていて、ついにビデオを買って僕たちにサイレント映画から見せはじめたんです。ブニュエル、ムルナウ、フリッツ・ラングやチャップリンを見ました。父なりに映画史に沿って、次は30年代から50年代のミュージカルを見せられて、それからフィルムノワールやジョン・ヒューストンを見ました。父から映画教育というものを受けたわけです。そのうち、どんな人がどんなふうに映画を創ったんだろうと興味を引かれるようになりました。だからかなり早い時期に創ることへの興味はあったんだと思います。そうしてティーンになったころに、いとこと映画を撮ってみました。これがまた本当に映画学習でした。田舎のいとこの家に数週間泊まって自分たちで演じて撮りました。すごく楽しかった、素晴らしい時間でした。
―去年“サイト&サウンド”で、オールタイムベスト映画の中に日本映画の『生きる』と『西鶴一代女』を選んでいらっしゃいますよね。こういう映画から影響を受けたと思いますか? 私は『Foster』についてまったく知らなくて、最初に『コット』を見たときに50年代の話かと思ってしまったんです。50年代の雰囲気が感じられたというか。
『コット』について色々な人がコメントしていて小津映画に似ているという人もいました。そう言われるのはわかります。でも映画を撮っている間はそんなこと考えもしませんでした。撮影監督のケイト・マッカラやスタッフとは、ほかの映画については話していました。記憶についての感覚を探りたかったからです。この映画は物語の中心にいる一人の少女の視点から描かれますよね。だから記憶を描くこと、記憶がどうつくられるのか、子どもでいるのはどういう感じなのかを描こうとしていました。子どものころは後部座席に座らされて行先もどこかわからず親に連れられていく感じです。自分に何が起こるのかもわからないし、自分が何かをコントロールする感覚は無くなってしまう。そういう感情が始まるようなイメージを創り上げようとしました。観客に少女の気持ちを感じ取ってもらえたからこそ、この映画が成功したと思います。観客を子ども時代に引き戻すことで、そのときの気持ちを感じさせられるのです。
僕は日本映画をリスペクトしていますし『生きる』は本当に好きな映画で傑作だと思いますが、映画の作り手としてはすべての映画から影響を受けますし、何本かの映画は心に残り続けますよね。だから完全にオリジナルなものを作るのなんて不可能に近いし、色々な作品の影響を無意識レベルで受けていると思います。
―なるほど。『コット』を撮るにあたって一番気をつけたのはどんなところですか?
すべてに注意を払っていました。監督は俳優に対してまず責任を負わなくてはなりませんよね。それに、主役のキャサリン・クリンチには、彼女の演技が映画のすべてに関わるので、物語全体を通してかなり注意していなければならない。ですから、演技の手助けになるように、できる限り時系列で撮影を進めるようにしました。キャサリンにはなるべくコット本人のように物語を経験してほしかったんです。時系列で撮影を進めることで、どんなふうに関係性ができて、それが豊かなものになっていくのか、より自然に撮れましたし、だからこそ、たとえばコットと彼女を預かったショーンが心を通わせるシーンも撮ることができたんです。かなり気を遣いました。アルフォンソ・キュアロンが『ローマ』を撮ったとき、フレームのどこで起こるどんなことにも気を配ったと言っていました。それが頭にあったので、撮影中ずっとフレーム内のすべてに気をつけるよう自分に言い聞かせ続けていました。撮影中のあらゆることに全集中力を注いですべてに全力投球していたんです。
―キャサリンを監督するにあたって「指示を出しすぎず方向性を正すことに努めた」とのことですが、具体的にはどういうことですか?
映画を撮るときは最も重要なのは、どの役柄の人にも正しい指示を出せることです。そもそも登場人物に近いと思える演者を選んでいるわけですよね。そうすると映画の中の登場人物の存在感がはっきりしますし、どの登場人物も感情的な温度まで理解されていなくてはなりません。キャサリンは最初からずば抜けていました。
彼女を最初に見たのは、彼女の母親がiPhoneで撮ったオーディション用の動画でした。僕の指示なしでも、すでにキャサリンにはコットのような性格があって、キャラクターをわかっていて感情を込めることができたんです。ほとんど彼女自身の中に隠された感覚を。役柄に対する積極性もありました。しかもそれが一度もカメラの前で演技をしたことない幼い女の子だったんです。それが、内向性を表現してその弱さをカメラにさらすという、ほとんど矛盾するようなことを同時にやっているんです。セットでも彼女は感情をすごくよく理解できていました。シーンにどんな感情を込めるべきか、何を避けるべきか、どんなことを成し遂げるのか、一緒にいる大人たちについてどんなふうに感じているのかを話し合って、ときどき想像させてみたりはしました。でもほとんどの場合、彼女は役になりきっていて、僕はほぼ何も演出しませんでした。
―原作にはなかった学校のシーンを入れていますよね。ああいうことを経験されたのか、それとも彼女の孤独を強調しようとなさったんでしょうか。
そうです。原作はコットが父の車でキンセラ家に向かうところから始まって、文章は主人公が読者に語りかけるように書かれています。主人公は彼女の生活の小さな事柄を伝えていきますよね。そうした小さな事柄から全体像を構築して舞台を作っていきました。ですが、あなたが言った通り、学校のシーンのようにまったくオリジナルなシーンもあります。中でもオリジナルなシーンはオープニングです。このシーンで主人公の人物像を表そうとしているんです。主人公はとても孤独な人物でほとんど人目につかないんです。というか、人格を持った誰かとして人に見られていない。ですから、お気づきでしょうが、最初のオープニング映像はカメラがパンするとやっとそこに草の陰に子どもがいるとわかるのです。それでも彼女の姿はよく見えなくて、彼女の顔は見せていないんです。オープニングのシークエンスのだいぶ後まで彼女の顔はわからない。観客に準備させることで、彼女が経験することに観客を引き込んでいったんです。
―居場所を見つけるまでの道のりということですね。ありがとうございました。
ありがとうございました。

『コット、はじまりの夏』

(2022/アイルランド/95分)

81年夏のアイルランド。9歳のコットの父は賭け事で財産を失い、母は子沢山すぎて彼女の世話にまで手が回らず、しかも出産を控えています。コットは母の従姉妹のキンセラ家に預けられることになって…少女の成長、少女を世話する夫婦の心の動きが丁寧に描かれた珠玉作です。アカデミー国際長編映画賞で『西部戦線異状なし』や『EO』と並んで最終選考に残ったことも話題に。

監督:コルム・バレード
出演:キャリー・クロウリー、アンドリュー・ベネット、キャサリン・クリンチ、マイケル・パトリック
配給:フラッグ
1月26日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、渋谷ホワイトシネクイントほか全国公開
公式サイト:https://caitmovie.jp
© Inscéal 2022

PROFILE

遠藤 京子

東京都出身。出版社を退社後、映画ライターに。『EYESCREAM』『RiCE』、『BANGER!!!』に寄稿。

Instagram @cinema_with_kyoko
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